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「灰屋にでも行ったら…」

企業名が「井上石灰工業」、そして私の名前は「井上孝志」。お察しの通り私は、代々続く「家業」を継いで行くというレールを敷かれて生まれてきた類の人間です。
その「レール」を、どう思うかは人それぞれだと思いますが、私はそのことについて疑問や反発もなく、かと言って特別恵まれているなどとも思わずに成長していきました。
ただ、父や祖父、そしてそれ以前より100年ほども長く受け継がれているということに「誇り」のようなものを抱いていたとは思います。

自宅も石灰工場の近くにあり、仕事の風景も、私にとっては日常でした。しかし、ある日のこと、近所の人が話している傍を通った時に、耳を疑いたくなる言葉が聞こえました。
「仕事がなかったら、灰屋に‟でも‟行ったらいい」
…「灰屋に‟でも‟」の一言が私の胸を刺しました。
そんな風に思われていることがショックでなりませんでした。
‟でも‟って何だ!!

しかし、冷静になって考えると、外から見たらそう思われても仕方がなかったのかもしれません。当時、1980年代の日本は好景気で、人気の企業は「銀行」「自動車メーカー」「電機メーカー」「商社」などでした。その人気企業に比べて、井上石灰工業はどうだろう?という素朴な疑問が私の中に芽生えました。

高校から大学へ進学し、上場企業である石油化学メーカーに就職した後、故郷に戻り井上石灰工業に就職しました。
その頃の会社の状況は、「与えられた仕事を淡々とこなして1日を過ごす」…いわゆる「労働」をしている社員が大半でした。私はそこに目をつけました。

社員一人ひとりが目標を持ち、それに向かって成長していく。
自分たちのしていることが人の役に立っていることを意識する。
「労働」ではなく「仕事」をしてもらいたい。

そんな職場風土にしたいと考えました。その時から、私の「志」が始まったのかもしれません。

意志あるところに (みち)は拓ける」

最初は「この人は何を言っているんだ?」という空気がありました。それもそうです。今までのやり方で問題が起きていないのですから。しかし、私には危機感がありました。
「会社を変えたい」と思ったきっかけは、「灰屋にでも」と言われたからですが、それ以上に「変わらなければ会社がダメになる」ということを、私が肌で実感していたからです。

2005年に私が社長に就任して以降、試行錯誤を経て少しずつ前に進み、ようやく私の理想が少し形になったことを実感できたのは、2015年(平成27年)に本社機能を南国オフィスパークに移した頃です。

“Where there’s a will, there’s a way.”

西洋のことわざで、第16代アメリカ合衆国大統領のリンカーンの言葉という説があります。
「どんな困難な道でもそれをやり遂げるという強い意志を持てば、必ず途は拓ける」という思いが込められています。

私の名前にも「志」が使われていますが、この文字に込められた意味が私は大好きで、仕事をする上で必要なものであると考えています。


We Will

「志」と聞くと、スケールの大きなことを考えてしまうかもしれませんが、些細なことであっても、目先のことであっても十分だと思います。仕事をする上で「こんなことを実現したい」「こんな自分になりたい」「こんな人たちの役に立ちたい」…そんな思いと熱意が新しい何かを生み出すチャンスとなります。

企業は「

私の「志」を支えてくれたのは多くの人です。
それは社員であり、お客様であり、協力してくださる取引先様であり、そして家族です。
そして「灰屋にでも」という言葉を発した方も、ある意味私の支えなのかもしれません。

これは企業が成長しても変わらないことです。
現在当社では海外展開を始め、新しい事業展開に力を注いでいますが、何か困ったり悩んだりした時には、必ずと言っていいほど人のご縁に助けられて来たように思います。

人の力は計り知れないということを、社員に実感してもらいたいですし、自分自身が他人に影響を与える力を持っているということも意識してもらいたいと思っています。


まだまだ続く、私の「

私は今も常に志を持ち続けて仕事をしています。
ブドウを栽培し高知産のワインを作ること、新品種のトマトをつくり、その栽培と流通ノウハウを広める、という新たな事業を展開していますが、これは、「自社製品と蓄積した知識を駆使して新たな事業を生み出し、地域に貢献したい」という私の志に、社員のさまざまな志が合わさって実現できていると思っています。

皆さんの志は、必ず誰かの役に立ちます。
その志を実現できるような会社づくりが私の使命です。


井上石灰工業株式会社
代表取締役社長 井上 孝志

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